衛生対策
当初は法人ではありませんでしたが(当時は弁護士法人という制度そのものがまだありませんでした。)、私が当事務所を開設したのが1998(平成10)年4月10日のことですので、ちょうど20年が経過し、今日から21年目に入るのです。
この間、様々な事件や紛争の解決に関与させていただき、また、多くの方々からご助言をいただいたり、より大所高所の観点からの薫陶を受けたりしながら、ともあれ成人年齢を迎えられたことに、心から感謝しています。
これからさらに、次の20年、30年に向けて、知識と経験、そして体力を蓄えて、法律家として多くの方々や社会に少しでも貢献できるよう、恩返しができるように努力していく所存です。
ところで、話は変わりますが、人間に関しては、成人年齢といえばこれまで日本では20歳だったものが、18歳に引き下げる方向で議論が進んでいます。民法で規定される成人年齢を現行の20歳から18歳に引き下げ、連動して選挙権なども18歳から行使可能とする改正案です。他方で、飲酒や喫煙、公営ギャンブルなどについては20歳を維持する方向で議論が進められていますし、少年法の適用年齢を引き下げるか否かについては未だ検討中とのことです。
何歳をもって成人とするかという議論は、裏返せば何歳までは子どもとして社会全体で保護すべきかという問題であり、パターナリズム的な発想を背景としています。このパターナリズムは、場合によっては国家による個人への干渉という面を伴いますが、子どもを社会全体で守るという発想や成人制度自体は必ずしも悪いものではありません。
それは、心身共に発展途上にある若年者を、物理的に有害なものから遠ざけて健全な成長を促したり、社会的経済的観点から見て必ずしもいいとはいえない環境から守りつつ、自立できるようになるまで見守るという発想に由来するものであり、かつての日本における戦争孤児や現在も世界中の紛争地帯や貧困地帯に生きるストリートチルドレンなどを生み出さず、社会で子どもたちを保護しつつ、健全に育てるための知恵であり、制度です。
ただ、そうしたパターナリズムは、多かれ少なかれ個人の自由を抑制したり、権利や能力そのものを制限するという面を持ちますので、若年者を保護するという目的のためであっても、自ずから一定の年齢で線引きをする必要があります。そうでなければ、国家が国民を保護するためという名目で、個人の自由や生活に過度に干渉する口実を与えることにもなりかねないからです。
そうした観点から見たとき、若年者であっても、自分たちの日々の生活や場合によってはその命運をも決するほどの権限を持つ政治的意思決定の過程に、極力参加できるようにしていくことは当然の事柄でしょう。そうでなければ若年者は常に保護の対象という名のもとに権利を制限され続ける恐れがあります。ですから、成人年齢を引き下げ、選挙権を付与するという議論自体は悪いものとは思いません。
ただ、他方で、そうした権利行使の前提として、表現の自由や知る権利を若年者にも充足していくことも必要不可欠ですし(例えば、高校生の場合、これまでは政治的な集会などへの参加は、程度の差はあれ、規制される例が多かったと思いますが、今後は高校生であっても、将来選挙権を自律的に行使できるようにするために、自らの考えを表明したり、その前提として様々な情報や考え方に触れる機会を保障することが必要不可欠でしょう。)、また、そうした権利行使を底辺から支えるために、教育を受ける権利をより充実させていくことも必要不可欠な事柄でしょう。
さらに言えば、一定の年齢で成人か否かを線引きするとはいえ、成人に達したらあとは自己責任だとして放ったらかしにするというのもいい制度とはいえないと思います。成人年齢に達した後、権利や能力を制限することなく、手助けをし、手を差し伸べていく制度も必要だと思います。
例えば、いま議論されている奨学金制度の問題などもその一つでしょう。貸与制の奨学金を利用して高校、大学と進学した後、将来的に多額の奨学金返済のために生活が行き詰ってしまうなどという悪循環は、早く改善する必要があります。
また、成長過程で必ずしも恵まれているとはいえない中で育った若者を支援していくためには、成人した後でも長らく手を差し伸べることも必要だと思います。例えば、虐待や育児放棄などのために社会的擁護の中で成長した若年者について、「18歳で成人したからあとはご自分でどうぞ」、といって突き放すことなく、長い目で支援していくことも必要です。そして、こうした支援は、民間のボランティアだけに全ての責任を委ねるには少々負担が大きいというのも事実だと思うのです。
とりとめのない話になりましたが、成人年齢をどうするかという議論と並行して、成人しても若年者を支援するための社会の在り方も議論する必要があると思います。
(2018.4.10)