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大分県中津市弁護士中山の憲法雑記②-立憲主義と民主主義

今日は、立憲主義と民主主義のお話をしてみたいと思います。

 1. まず、民主主義について考えてみます。
 
 民主主義は、小学生のころから学校で習ってきたとおり、私たちの生活に深く関わる政治的な命題、もっと平たく言うと、政治の在り方や個々の政策決定を、国民みんなで決めるというものです。もっとも、みんなで決めるといっても、文字どおり有権者全員で議論して決める直接民主制と代表者(議員)を選出して、代表者の会議(議会・国会)で決める間接民主制・代表民主制があり、現在の日本は代表民主制を採用しているということになります(なお、日本国憲法の中で民主主義を書いている部分は、前文第1段、1条(「主権の存する日本国民」との文言)、43条などです。)。

 とはいえ、現在の日本でも、直接民主制的な部分がないわけではありません。それは地方自治に関するもので、首長(市町村長や知事)に関しては住民が直接選挙によって選出するとされていること(国政では議院内閣制を採用しているため、国会が内閣総理大臣を選出(指名)します。)や地方特別法に関する住民投票(一つの地方公共団体にだけ適用される法律の制定には、その住民投票で過半数の支持を得なければならないと定められています。)などを挙げることができると思います。もっとも、これら地方自治に関する規定は、必ずしも直接民主制を採用したものとは言えないのですが、それでも、住民の意思を直接政治に反映させようという部分、色合いが濃いため、直接民主制的な制度と位置づけることができると思います。

 その他に、憲法改正の国民投票や最高裁判所裁判官の国民審査も直接民主制的な制度と言えるでしょう。

 ところで、最近この民主主義の危機として話題になったのが、特定秘密保護法制定をめぐる議論でした。それは、政府が万一にでも恣意的に秘密指定をするようなことがあれば、当該情報を国民が知る機会が奪われるため、議論すらできず、その結果、当該情報に関連する政治課題や当該情報を前提とする政策決定などに国民が関わること自体ができなくなってしまう恐れがあるからです。特定秘密保護法制定過程で、「何が秘密なのか。」「それが秘密なのだ。」などと揶揄されたように、政府が秘密指定をしてしまえば、いわばブラックボックスとなってしまい、それが秘密とされるべき情報なのかという問題はもちろん、何が秘密情報なのかさえ、国民は知ることができず、議論もできないことになりかねない、その結果、民主主義が機能しなくなるという重大な懸念がある法律だということができると思います。こうした懸念や批判を受けて、特定秘密保護法では、秘密指定に関して検証・監視するという制度設計にはなっていますが、しかし、その検証・監視機関も結局は役所、即ち、政府の一機関であるため、果たして本当に客観性が保てるのか、国民に知らせるべき情報まで秘密にされていないかという心配が完全には払拭しきれていないのだと思います。

 このことからも分かるとおり、民主主義の生命線は、国民にあまねく情報が行き渡っていることです。知らされていなければ、そもそも関心も疑問も抱けないのですから、議論ももちろんできませんし、国民が主体的に意思決定をすることもできなくなります。だからこそ、民主主義社会では、表現の自由や知る権利が最も重要だと言われるのです。もちろん、人権そのものの価値に優劣をつけることは出来ない、あるいはふさわしくないかもしれませんが、他の人権と異なって、表現の自由や知る権利などが侵された場合には、民主主義が機能しなくなるため、その侵害行為や侵害立法を是正する途が閉ざされてしまう、だから、表現の自由や知る権利を制限する法律などについては特に慎重にその合憲性を吟味しなければならないという意味で、最も重要な人権だと言われるのです。

2. 次に立憲主義について考えてみます。

 立憲主義というのはあまり聞きなれない言葉かもしれませんが、簡単に言うと、憲法によって国家権力などを縛り、国民の自由を保障するという考え方です。この考え方は、人権思想が開花・定着した近代市民革命以降に普及したものであり、現在では、先進国はもちろん、多くの国で採用されている考えといえると思います。

 ですから、立憲主義憲法とは、そうした人権保障のために国家権力などを縛る装置を持った憲法ということになります。現在では、普通に憲法というとき、概してこの立憲主義憲法を指して言うことが多いと思います。それは多くの国で、国家や社会において人権は普遍的なものであり、各人の人権は最大限保障されなければならないという考え方が定着しているからにほかなりません。

 これに対して、憲法とは国の根本規範であるとか、最高法規であるなどということもありますが、これは一面正しい定義ではあるものの、上記のような現代の憲法に求められる立憲主義を必ずしも前提とはしないため、現代の憲法を表す時には不十分な定義ということになると思います。

 それではこの立憲主義は日本国憲法のどこに書いてあるかというと、一番わかりやすいのは権力分立です。日本国憲法の中で権力分立を定めているのは、立法、行政、司法のいわゆる三権分立が典型的ですが、その他に国政と地方自治の関係、衆議院と参議院の関係も権力分立の一つの表れと言えると思います。要するに権力分立というのは、権力をどこかに集中させるのではなく、それを異なった機関に担当させ、さらに、権力機関相互に監視・抑制させることにより、権力の濫用を防止し、国民の人権を保障しようという考え方なのです。ところで、国政と地方自治の関係は一つの権力分立とも言えますが、同時に民意を多角的、多段的に反映しようという民主主義の思想も入っています。衆議院と参議院の関係も権力分立の一つの表れであると同時に、社会に散在する民意をより多角的に国会に反映するためという民主主義の側面もあり、また、衆議院が解散制度があるのに対して、参議院が任期6年とされ、しかも、半数ずつの改選とされているのは、ある意味では、議会の構成の変化に時間をかけさせることで、国民が冷静に判断する時間を設け、一時の感情で急激で拙速な革命などが起こることのないようにする防波堤としての意味もあります。それは、かつて世界が、ナチスなどのファシズムの台頭を許してしまったという苦い歴史的経験とその反省に基づく装置ということもできるかもしれません。

 そのほかに、硬性憲法の定めも立憲主義を反映したものです。その時々の政権や権力が、自らの手足を縛る、いわば権力者にとっては目の上のたんこぶともいえる憲法を簡単に改正することができないようにすることで、国民の人権を守ろうとしているということができます。

 ところで、意外に思われるかもしれませんが、大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法も、不十分ながら立憲主義は採用していました。不十分というのは人権保障が不十分(法律の範囲内でしか人権が保障されない建前でした。)だったからであり、そのため、人権を守るための立憲主義も十分ではなかったのです。ある意味では、その結果として、特高などによる著しい人権侵害や軍部の台頭などを許してしまったという側面もあるかもしれません。

 現在、憲法改正問題が議論されていますが、憲法を改正するにしても、この立憲主義を蔑ろにすることは許されません。立憲主義を弱めることは、それこそ、権力の濫用や暴走に対する歯止めを失うことを意味し、いわば権力者の思う壺となって、国民が虐げられる恐れを増大させるからです。

3. 最後に、立憲主義と民主主義の関係についてお話しします。

 よく立憲民主主義という言葉が使われますが、実は立憲主義と民主主義とは必ずしもセットではありません。立憲主義は君主主権とも結びつき、君主主権制度の下で君主の権力を縛るという政治体制もあるからです。明治憲法が立憲君主制の一つといえます。

 しかし、立憲主義と民主主義とが結びついたとき、より国民の人権保障に資するであろうということで、現在では多くの国々で立憲民主主義が採用されているのです。そして、日本国憲法も、まさしく立憲民主主義を採用しています。

 ところで、「法の支配」という言葉をご存知でしょうか?

 私たち法律家の世界ではよく使う、といいますか、司法試験受験中に耳にタコができるほど聞き、その意味を叩き込まれる言葉なのですが、これは「人の支配」に対抗する言葉です。つまり、特定の人が権力を掌握して統治する世の中ではなく、法が支配する、法が権力を縛るという考え方です。さらに言うと、その法とは、人権保障を志向する「正しい法」でなければならず、また、国民によって制定された「民主的な法」でなければならないとも言われます。つまり、民主的で人権を保障する法によって権力を縛るということになります。そうすると、法の支配という言葉と立憲民主主義とは、実はかなり似通った考え方ということもできます。

 これに対して、法治主義という言葉がありますが、法治主義と法の支配とは似て非なる側面を持っています。法治主義の法は、必ずしも人権保障に資する正しい法とか民主的な法とは限らないとされるためです。ですが、現在、法治主義という時は、通常は「実質的法治主義」のことを指し、これは正しい法で、かつ、民主的な法という意味を含んでいますので、実質的法治主義≒法の支配ということになります。

 いずれにしても、日本国憲法は法の支配を志向し、立憲民主主義を採用しています。とりもなおさず、権力の暴走や濫用を防いで、人権を保障するためです。

 憲法を考えるとき、改憲であれ、護憲であれ、まず真っ先に考えなければならないのは、立憲民主主義の考え方や法の支配に即していると言えるか否かなのだと思います。

 それゆえ、現在論議されている論点の中で、憲法によって義務付けする対象・名宛人を曖昧にしようとしたり(あたかも国民を憲法によって義務付けるかのような論調も見られます。)、国民に特定の価値観を押し付けようとするかのような論調は、とても奇異に感じてしまいます。道徳とか愛国心とか日本の伝統などを、憲法によって国民に義務付けするのは、立憲主義という観点からは外れていますし、思想良心の自由をも侵しかねません。そもそも愛国心といっても、人によっていろいろな愛し方があり、一義的な考えではないはずであって、特定の人が考える特定の愛国心なるものを押し付けるのはやはり無理があると思うのです。

(2015.6.1)