衛生対策
今日は暴力について、思ったことを書きたいと思います。
暴力の定義は実はなかなか難しいところがあるのですが、ここでは、一般的に用いられている用法に従って、他人の身体に対して、殴る、蹴る、物を投げつける、耳元で大声で怒鳴るなどの行為をすることの意味で用います。
まず、現代の法制度においては、当たり前ですが、暴力は悪であり、原則として、どのような理由や感情によるものであっても許されません。例外は、正当防衛など、法律によって違法性がないものとされる場合だけです。
しかし、実は、暴力は横行しています。
家庭内の相談を受ける際に、暴力があったことを窺わせるものがちょくちょくあり、もちろん、それが家庭内不和の原因として救済(離婚や慰謝料の支払いなど)を求めている方もたくさんおられますが、他方で、暴力の問題性についてあまり気がついていない方がまだまだたくさんおられるのも事実です。
暴力の問題性に気がついていないという場合、加害者が暴力を正当化して、それが悪いことだと認識していないという場面に限定されそうですが、実は、被害者自身、つまり、暴力を受け続けている方ご自身も、ある意味では暴力を受け入れてしまっているような印象を受けることがあります。
その理由は何でしょうか?
この点については、心理学等様々な観点から研究がなされていますが、いずれにしても、被害者ご自身が、いかなる理由があっても、また、いかなる場面でも、暴力を受ける理由やそれを正当化する根拠などないにもかかわらず、暴力を受け続けることによって、暴力をふるわせているのは自分が悪いからだと思い込み、場合によってはますます加害者に精神的に従属するような悪循環に陥ることがあるということのようです。
このような問題はDV(家庭内における配偶者や子どもに対する暴力・虐待)に限らず、いじめにも体罰にも共通する面があります。
しかし、DV・いじめ・体罰、どれも悪であり、違法です。民事・刑事の法的責任も発生します。
いかなる理由であっても、暴力を正当化する理屈などありませんし、被害者が暴力を仕方ないものとして受け入れるのも間違いです。原因や問題があるのであれば、それに応じた別の方法で解決すべきなのであり、どんな背景があっても暴力は許されないことを、加害者にも被害者にも気づいてもらう必要があります。
今日は、まずそのことだけお伝えしたいと思います。
暴力を振るう人に関して、私が思うのは、想像力が欠落しているということです。先ほどお話ししたように、暴力は、それ自体、損害賠償責任を負ったり、暴行罪・傷害罪として処罰されることもあるものです。しかし、それ以前に、暴力を振るうことは、振るわれることと同じくらい怖いものだと思うのです。なぜなら、自分の暴力によって、相手に身体的だけでなく、精神的にもどのような傷を負わせることになるかわからないからです。
人を傷つけたい、傷つけても平気だという人は、おそらく異常だと思います。少なくとも普通ではないし、社会で人と交わりながら生活するには不適格だと思います。もしかしたらそういう人もいるかもしれませんが、ほとんどの人は、他人を傷つけることは怖く、抵抗を感じるはずです。
それにもかかわらず、暴力を振るう人というのは、人を傷つけることの怖さがわからなくなってしまった人、想像力がなくなってしまった人なのだと思います。しかし、家庭でも、学校でも、一般の社会でも、人と関わる以上はそうした想像力は不可欠です。
言い過ぎかもしれませんが、究極的には、暴力をやめるか、普通の人間として生活するのをやめるか、二者択一だと思うのです。
そういう意味では、戦争やテロも同じですけど・・・ (2015.3.20)